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教授エッセイ

五感を最大限に生かせ! - 様々な疾患のゲートキーパーたる皮膚科医

私たちは、相手の表情をみながら日々コミュニケーションを行っています。しかし「表情」というのは、実はその人の「皮膚」に他ならず、それ故皮膚は日常生活と密接に繋がっています。 また、例えばSLEの患者さんは、自身の頬部の赤みを蝶形紅斑と思って膠原病内科に外来受診するのではなく、ほっぺが赤くなったことを主訴に皮膚科に受診されるわけです。 そのため皮膚科医は、患者さんの日常生活と関わりあいながら、かつ様々な疾患のゲートキーパーとしての重要な役割を担うことになります。

一方、近年医学の進歩が急速に進んできていますが、そのほとんどは視覚の情報を得るための技術進歩であり、MRI、PET、内視鏡などの発展はその典型といえます。 ところが皮膚科では、病変を経時的かつ詳細に観察することが可能です。その際には視覚のみならず触覚や嗅覚などのあらゆる五感を駆使できます。 従って自身の診断の正しさや治療効果などを極めて客観的に評価できます。これは他科にない皮膚科だけの特権と言えるでしょう。

また、老若男女問わず全ての人が診察対象であり、問診、視診、病理診断、内科的治療、外科的手術、化学療法にわたり疾患の診断から治療までの全てを自身で責任をもってフォローすることができるのも皮膚科の醍醐味の一つです。

様々な疾患のゲートキーパーとしての皮膚科という専門領域に、臨床研修医の諸氏が興味を抱いてくれることを期待したいと思います。

留学しよう

1. はじめに

留学というのは、留学先で臨床や研究するということのみが目的ではありません。これまでと異なる環境に身を置くことは、語学の上達を図ったり、国際感覚を身につけたり、皮膚科以外の様々な背景を有する人と親睦を深めたりすることを体験することが重要です。
日本では臨床、研究、教育、医局内の仕事などに縛られてゆとりのない生活を送るのが日本の医師の必然です。ところが留学中は、留学の目的とするテーマに集中することができます。 そのため、時間に非常にゆとりができますから、家族と過ごす時間や趣味などに興じる時間も十分にとれます。約40年という医師としての人生におけるしばしの憩いの時間とも言えます。

筆者の場合は、これまで3回海外留学する機会を得ています。大学4年生時に米国NIHでの4ヶ月のsummer studentとしての基礎研究、米国シアトルでの臨床研修、 米国サンフランシスコでの基礎研究です。

今回は主に海外留学を中心に述べたいと思いますが、国内留学においても同様の事が言えます。これまで自分の育った医局と異なる環境に身を置くことはその後の人生の幅を広げることとなるはずです(国内留学については最後に触れます)。

2. 留学の目的

「何を学びたいか」を明らかにすることが、留学先を決める上でもっとも重要なことです。これまでの仕事の延長でもいいし、全く新しいテーマに挑戦することも可能です。 そもそもどこに留学してもうまくいくという保証はないわけですから、打算的にならずに積極的にチャレンジして欲しいと思います。

筆者自身は、大学院時に学んだ遺伝子欠損マウスの解析中心の研究と異なり、留学では特定の分子や皮膚にとらわれずにgeneral principleに迫る研究を目指しました。 米国のUCSFの免疫学教室(Jason Cyster博士)に留学先を決めました。皮膚科医は勿論自分だけですし、多くは基礎医学の研究者でしたが、切磋琢磨した経験はその後の人生の大きな支えになっています。真剣に頑張るほど得るものも大きいのだと思います。

3. どのように留学先を選ぶのか

留学先は、先輩の引き継ぎでの留学や、自身で探す場合もあります。前者の場合はいろいろな勝手がわかっているのでスムーズに進むかと思います。一方、自身で探す場合は、 一般的に以下のような手順を踏むことになります。自分のやりたいテーマの実験をしている研究室を、pubmedやhomepageなどを通して決めます。 次に、自分が留学したいという旨のメールを上司の推薦状と履歴書を添えて送ります。次に面接か電話でのインタビューが行われます。このプロセスはストレスが大きく、 読者の中にはこんなこと自分にはできないと思ってしまう人もいるかも知れません。いずれ乗り越えなければならない壁ですから、しっかりプレゼンの練習をして挑んでいただきたいです。 多少プレゼンがうまくできなくても、研究の内容や、誠実さ、熱意は伝わります。また、電話インタビューよりも直接の面接の方が、日本人の誠実さなどは伝わりやすいと思います。

4. どの研究室に入るのか(研究留学の場合)

研究留学の場合、皮膚科と基礎の教室の二つの選択肢に分かれます。前者の場合、共通のバックグラウンドがあるため溶け込みやすいと思います。また、帰国後も国際学会などで同僚 と再会できるのも良い点でしょう。また、最近は臨床の教室でも、non-MDが研究を支えているケースが増えており、そのあたりは日本との大きな違いと言えます。

一方、基礎の研究室は、より本質的なテーマにチャレンジできますが、結果が出ない可能性も十分あります。ただ、研究に没頭できるチャンスは人生でもかぎられていますから、 留学中にこそ基礎の研究室に飛び込んで研究するのも悪くありません。新たな分野を開拓できれば、帰国後にその道の第一人者となれるかもしれません。

指導者には、若手で名前はあまり有名ではないけれども頑張っているところと、大御所の大きく2種類あります。

大御所に留学するメリットは、世界中から優秀な人材が集まり、豊かな人間関係を築け、また研究資金も潤沢の事が多いです。ただ、大御所は一般に忙しくてなかなか 研究者の研究内容の隅々まで目が行き届かないのである程度自分で研究ができる状態で留学しないと成果を出せない可能性もあります。

一方、若手の指導者のところでは、十分にdiscussionする時間があり、ボスと割と近い目線で実験をやっていくことができます。筆者は若い上司の研究室でしたが、活気に満ちあふれ、互いが切磋琢磨し合い充実していました。

5. 臨床留学について

皮膚科は海外では最も人気の高い診療科であり、日本人が皮膚科の臨床を海外を行うことは容易ではありません。例えば、米国で臨床をするためにはまず、日本の医師国家試験に あたるUSMLEに合格しなければなりません。またUSMLEも合格すればいい訳ではなく、一般のアメリカの医学生より高得点の成績を取らなければ外国人にポストは巡ってきません。 米国での皮膚科の臨床研修の話は「臨床皮膚科」という雑誌に現コロラド大学皮膚科の藤田真由美先生の連載記事(2003年頃)を参考にしてください。 米国のレジデント教育システムは日本とは比較にならないほどしっかりしています。鑑別診断を一つずつ丁寧に挙げ、診断に至るまでのプロセスを大切にしますので、学ぶことは多いです。

一方、新たな手技を学ぶことなど目的を特化した短期留学という選択肢もあると思います。例えばMohs surgeryによるbasal cell carcinomaなどの切除やconfocal microscopyを用いた 診断、日本では承認されていないざ瘡や尋常性乾癬の治療など挙げ得ればきりがありません。ただし、実際の医療行為を行うことは一部の例外(オーストラリアなど)を除けばその国の医師国家試験に相当するものに合格しなければならない事が多いので、下調べが必要です。

見学は基本的に医師免許がなくても問題ないことが多いですから、臨床研究は可能のはずです。また、例え基礎研究で留学しても週一回くらいのカンファレンスには参加することをお勧めします。

6. 留学中の生活について

筆者が留学したサンフランシスコは、気候が温暖です。そのためゴルフやハイキングなどアウトドアを楽しむには最適です。日本食や食材を手に入れることも比較的楽ですし、 東海岸に比べれば日本との往復は幾分楽ですので、家族連れにはメリットが大きいかも知れません。人種差別が東海岸に比べれば比較的少ないと感じます。 ただ、東海岸はNIHやハーバード大学などの一流の施設が存在し、日本人留学生も多くいます。このあたりのことは、研究留学ネットなどサイトに詳しいので是非ともチェックしてみてください。

ヨーロッパは自分が留学したことがないので何とも言えませんが、文化や歴史があり、もう一度留学が許されるのならば、是非ともヨーロッパに行ってみたいと感じます。

家族で留学する場合は、その地域の安全性や教育環境なども下調べが必要になります。大体の地域で日本人会のようなものがありますからインターネットで調べたり、 実際に留学している方を紹介してもらって情報を得ておくことも重要です。

7. 国内留学について

自身の所属している教室や病院には、必ず得意領域と苦手領域があるものです。もしも、自分の所属する病院で手術症例が少ないにもかかわらず、手術を学びたいと思えば、 国内留学は有効な手段と思います。幸い皮膚科は他大学との垣根が低く、きちんと部長や教授同士で交渉してもらえばうまくいくことが多いのではないかと思います。 ちなみに筆者の教室では、国内外から皮膚免疫の研究目的の留学生を受け入れてきました。逆に皮膚病理の研修目的で多施設へ国内留学したケースなど多々あります。 このように、日本全体で、大学間の交流が増えることは非常に良いことだと思いますし、今後益々推進すべきと考えています。

8. 最後に

自分のこれまの経験をもとに留学について記しました。留学は、何となく敷居が高いと思っているかも知れませんが、一度きりの人生ですから是非チャレンジしてみて欲しいと思います。 行くまでは不安でも、実際に留学してしまうと何とかなるものです。留学は、日本における小さなcommunityの枠から外れて自分自身の可能性や視野を広げる最高のチャンスです。 異国の地において、皆さんは新しい人生を歩めると言っても過言ではありません。仕事、家族との時間、遊びの全てをしっかり楽しんで下さい。

読者の方が留学というものに魅力を感じ、それを実現させることを一つの目標に日々頑張ってくれれば、筆者としては望外の喜びです。

臨床と基礎研究の両立:経験した人にしかその世界はわからない

1. はじめに

そもそも「臨床と基礎研究の両立」というテーマは、今に始まった問題ではなく、医師にとってある意味永遠の(そして答えのない)課題である。そのため、ここで一般論に終始してしまってはつまらない。そこで個人的な経験に基づく個人的な意見を述べさせていただく事にする。賛否両論あるかと思うが、私の考えを読者がうまく消化(昇華?)していただければ幸いである。

2. 研究とは

臨床と基礎研究は、医学において対立軸と見なされることが多い。そもそも研究の定義からして難しいのだが、「ある物事について、知識を集めて考察し新たな仮説を立て、 それを観察、実験を通して調べて、事実を深く追求する一連の過程のこと」あたりであろうか。医学研究は、基礎研究と臨床研究に大きく二分されるがその違いは曖昧でもある。 一般に臨床研究は新しい治療の試みや、既存の方法や基礎研究の成果を用いて疾患を深く掘り下げるというような応用研究を差す。一方、基礎研究は、新たな法則の発見であるが、 医師の行う基礎研究は、酵母を用いた細胞分裂の機序解明というようないわゆる基礎研究ではなく、マウスを用いた病態モデルなど臨床に近い基礎研究を差すことが多い。

すなわち、医師が臨床との両立を目指す基礎研究は、自分の専門科に関連した標的疾患があり、その発症機序の解明を目指すというような目的が明確な研究テーマが多い。 臨床と基礎研究が直結しているため、明確なゴールに向けて研究を進めることができるのはMDの特権とも言える。二足の草鞋をはきながら、そして研究のスタートも遅いMDの研究者が、non-MDの基礎研究者とやり合っていくためには研究課題の選び方に十分配慮すべきである。

一昔前までは、血清中のサイトカインや抗体価の測定、組織の免疫染色、遺伝子検査だけで大仕事になっていたが、今やこれら多くのことは、 臨床検査会社に依頼したり、簡単なキットを利用したりするだけでほとんど事足りる。従って、臨床と研究の線引きは時代と共に移り変わる。 病気を深く知ろうとする行為そのものが研究であると考えれば、よい臨床医になるためには研究という作業が必ず伴うのではなかろうか。
しかも、生物学的製剤の導入など、今後は基礎研究の成果が次々と臨床に応用されていく。教科書の知識は古くなる一方であり、基礎研究の知見をアップデートする行為は、 よき臨床医になる上でもはや避けて通れない。

3. 臨床家への苦言:井の中の蛙に留まってはもったいない

臨床一筋の人は、目の前の患者を救うことに関して一流であることは疑いない。ところが、その技と知恵をどう社会全体に還元するのかということにあまり関心がなく、 個人的な次元で満足してしまっていることが多いのは残念である。

せっかくの蓄積された素晴らしい臨床知識や知見を、自分なりの診断・治療アルゴリズムの提案、新しい治療法などの治療面でも工夫などを一流の臨床家はよく経験しているはずである。 後輩の育成を熱心にされる方もおられ、それはとても大切なことだと筆者も感じている。しかしそれを学会で発表する、そして日本語で論文発表する、いや、できれば英語で論文発表する、 ということは、時間と空間を越えて医学の発展に貢献しうる。今や世界中の人がpubmedやgoogle scholarを使えば世界中の英文論文にアクセスすることが可能である。 日本語の論文に比べると、英語で報告することの意義は計り知れない。

はたして、英語で論文を書くことは本当に難しいことであろうか?そのテーマの関連論文を10~20編も読めば、自分が書きたいと思っている言い回しや表現などはほとんど 全てそこに記載されているはずである。うまく先人の文章を自分に取り込んで論文を作成すれば良いと思う。手術の手技の習熟等に比べれば、英語の論文を書くことは実はさほど難しく ない。筆者がそうここで書いても信じてもらえないかも知れないが、「Google 英文ライティング(遠田和子著、講談社)」などを読めば、論文作成のコツがわかってもらえるはずである。

4. 臨床と研究の両立はどうすればよいのか?

臨床と研究の両立が理想的だということは、多くの医師が思うことであろう。しかしいろいろな問題や壁に直面することにより挫折してしまうことが多い。 よくある理由は「物理的に時間がない」というものである。Physician scientistの多くは大学に在籍するが、大学病院には重症の患者が多く集まる。 たしかに重症の入院患者の担当ともなれば、研究を進めることは容易ではない。
それではどうすればいいのか、ということになる。その時その時の状況で自分をうまく適合させていくしかない、というのがアドバイスになってしまう。 筆者は産業医科大学に約3年間赴任したことがある。赴任当時は大学院生や研修医を含めて10名に満たず、また病床も20名近くであるがメラノーマなどの重症の患者が占めていた。 正直基礎研究という気分が起こる状況とは言いがたい気分にもなりそうであった。その時は、まず自分の担当の患者さんの病気を深く学ぶという臨床研究から若手医師に指導していった。 レジデントや若手のスタッフが夜の9時頃からセカンドラウンドと称して実験に向かっていたが、それくらいの体力と気力は時に要求される。 そして徐々に基礎研究もできる様にシフトさせていくことを心がけた。僕は比較的厳しい指導者であったが、当時の教室の教授が褒め上手で、若手を大変うまくencourageしてくださった。 そういうバランスもとても大切なのだと思う。
すなわち、臨床と研究の両立に関しては、全くのケースバイケースである。そして、苦しい状況を自分(そして教室のチーム全体)で突破していくことも研究者として大切な素質である。 研究は共同作業の賜であるので、自分と周りの人々がどうすればうまく仕事を進めることができるかということを常に頭に置いておかないとならない。

臨床と基礎研究の両立をするためには基本的には大学にいなければならないが、臨床と研究を両立することは一般病院でもある程度可能である。 また、一部の病院はある程度の研究施設を備えている。自分の病院がどのような構成になっていて、そしてどの部署の誰がどのような技を持っているかしっかり把握すると良いと思う。 まずは協力してくれる人間関係が重要である。また、大学病院以外に勤務していて、週末や平日勤務のあとで実験にくる医師を筆者は多く知っている。 当教室にもそういう若手医師が数名いて、彼らを見ていると、大切なことは環境を整えてあげる事でなく、本人の情熱なのだと痛感させられる。

しかしながら、臨床と基礎研究と両立するためには、そもそも基礎研究をどこかの時点で経験し、技術を習得しておかなければならない。 大学時代は自由な時間がたくさんあったがその時間に研究したという人はそう多くはない。自分の経験をもとにすれば、基礎研究に打ち込める時間というのは人生において 大学院と留学くらいしかないのではないか?自分自身の技術やトラブルシューティング能力などが不足すれば、結局後になって後悔するのは自分である。 大学院時代もアルバイトの時間はほどほどにして、研究にできるだけ専念することを薦めたい。「自分自身に投資する」という考えは若いうちから養っておく方が良いと思う (いや、若いうちこそ投資すべきである)。

5. 臨床医が基礎研究を行うことは役に立つのか?

学生や若手のレジデントに研究は役に立つのかと問われることある。最近の若い人達は、それが何かの役に立つのかどうかなどの打算に左右されることが多いようだ。 世の中が先行き明るくない、というような話がたくさん出ているためある意味仕方が無いことかも知れないが、打算は無用である。どのような機会も自分自身の成長に繋げる様 に自身がつとめていくことこそが大切な問題である。そういう努力と実行ができなければ、人生が希望の通りにかなうとは思えない。

研究をするときにも様々な動機が存在する。僕の場合は非常に単純で、「もっと病気のことを知りたい」、「こんな治療をやってみたい」、という思いが強く、そしてそういう作業 を楽しいと感じているからである。研究はある程度単純で少しバカな位の人間がちょうど良いのかも知れない。打算が余りに働くようだと研究にチャレンジできていないのかもしれない。 でも、今、こうして十分に臨床と研究をすることができているのでラッキーである。

一方人間には野心というものも少なからず存在する。「人間のあらゆる行動は二つの動機、すなわち性の衝動とえらくなりたいという願望である」とフロイトも説いている。 医学部で教育を受けるとどうしてもその組織のトップが教授であるという気がしてしまい、そのためには研究をすることが重要であるという気持ちを抱いてしまうのはやむ を得ない気がする。しかしながら、研究が自分のpromotionのための道具としてのみであれば、継続することは難しい気もする。ともあれ、20代半ばで医師になるとすれば、 概ね40年近く医師として働くことになる。大学院の4年間というのはたかだか10%に過ぎない。やってみてどんな動機や契機であれ、研究を一度はやってみることは決して悪いことではない。 そして好きになればそれをどこまで継続していきたいと思うか、そしてそれを実際に続けていけるかどうかは、自分次第であろう。

6. 最後に:臨床・臨床研究・基礎研究の三位一体論

以上を読んで感じ取ってもらえたのではないかと思うが、臨床と臨床研究・基礎研究は三位一体である。何かをやりたい、解き明かしたいという情熱、それに向けて方策を考え、 そして実現に向けて実際に行動することができれば、その人はおそらくどのような環境でも両立させる事ができる。何らかの理由をつくって自分ができないことを周りのせいにする ような心構えでは務まらない。誰もが忙しいわけであり、忙しいことを理由に両立ができない、というのであれば、その人に仮に時間を与えたとしてもできないであろう。

自分自身に壁を突破するエネルギー無いという自分自身を直視できずに周りのせいにするようではならない。自分が苦しいと思っていても、もっと忙しい中臨床と研究を行っている人 が世の中に必ず存在する。そういう意味では、同様の認識をshareできる友人を持つことは貴重な財産であるといえる。幸いそういう友人に恵まれていることに筆者はとても感謝している。

これからは、遺伝子改変マウスやゲノムなどの情報により小動物から得られた知識をhuman biologyに生かして行くことが求められる。ヒトの疾患を扱うことができるのは医師であり、 また疾患を理解しているのもやはり医師である。個人的には、臨床と研究は連動しているので、両輪が駆動することで自身の医学は前進していると感じている。基礎研究は、 何も動物や細胞を使って行うことだけを差すのではない。その病気を知ろうとする作業そのものが研究に通じるのだと考える。臨床と基礎研究の両立を継続することができるのは、 おそらくそれがその人にとって満足がいくところであるからではなかろうか。ともあれ、満足のいく充実した人生を送ることができるのは、ありがたいことである。 臨床と研究で忙しくなる、というその充実した人生を送ることができることにむしろ僕は感謝したい。

最後に、私的な経験に基づいた独断的な内容になってしまったことをお詫びする。この文章を通して一人でも多くの医師が臨床と研究の両立という選択肢を考慮してくださることを心より願っている。そして、人生は一度きりしかなく、そして経験したものにしかわからない世界がある。思い切ってチャレンジしていく精神を若い方には期待したい。

ランニングと研究(日本細胞生物学会会報より)

細胞生物学会には2016年の京都大・病理の松田道行先生が会頭の時に初めて参加させて頂き、そのざっくばらんな雰囲気に魅せられ、そのまま入会しました(実は、吉森会長とマラソン仲間という理由が一番大きい?)。

さて、私は現在46歳ですが、40歳になった時を契機に、自ら手を動かして実験をする事を止めました。ただ、実験は意外に良く体を動かしているもので、研究を止めたとたんにストレスが溜まり始めました。これを平和的に解消するためにいろいろな事を試みました。ただ、スポーツジムは、会員になっても通うのが面倒臭くなり、数ヶ月に一回というペースに落ち着くのでお金の無駄になります(同じ過ちをこれまで何度も繰り返しています)。ゴルフは、OBの連発で返ってストレスが溜まります。テニスはパートナーやコート探しが面倒です。ということで、鴨川沿いのジョギングがいわば消去法的な形で残りました。しかもジョギングシューズを買えばいいだけなので安上がりです。自分に適した趣味やストレス発散法をみつけることで、人生は随分と楽になります(ちなみに銭湯に行くのも僕のストレス発散法の一つです)。

ニーチェ曰く、「男が本当に好きなものは二つ、危険と遊びである」。でもこれって、別に男と関係なく、サイエンティストにも当てはまりますよね。そしてそういう性(さが)は仕事だけでなく、趣味にも反映されるものです。

「せっかくジョギングをするのであれば、チャレンジングに激しく遊びたい!」ということで、一年目のシーズンに、福井駅前マラソンハーフマラソンを皮切りに、JAL千歳マラソン、丹後ウルトラマラソン(60km)を完走しました。今はランネットというサイトなどで簡単にエントリーできます。無謀とも言えるようなエントリーの仕方をするところに自分らしさが良く出ています。

よく、「僕はフルマラソンなんてとても走れない」と勝手に決めつけている人に会います。ただ実は、マラソンと研究への姿勢は概ね共通しています。僕はとにかく自分の限界以上のところまで挑戦し、そして失敗を介して限界を悟り、ただその次は、その限界を超えようとします。自分の性格が反映されやすいスポーツだと思いますが、逆にマラソンを介して自分自身が変化できる可能性もあり得ます。

2年目のシーズンは、フルマラソンの3時間半切りを目指しましたが達成できず、また、サロマ湖100 kmウルトラマラソンでは、右の腸脛靱帯炎がひどくてロキソニンを10錠以上飲みながら、何とか完走しました。ケガがあると、マラソンそのものもつらく、趣味が楽しみというよりも苦行のようになりかねませんでした。速くなりたいがために練習をすればするほどケガも起こるというジレンマに苦しみました。その点、研究はいくらエネルギーを注いでも普通ケガをすることはないので、特に若い研究者の皆様はとことん実験を満喫してください。

3年目のシーズンも、前半は、福地山、紀州口熊野マラソンと3時間半を切れずに悔しい思いをしました。別府大分マラソンの出場資格は3時間半切りですから、このままだめかと諦めの思いもありました。

ところが、2年目シーズンの途中で大きな転機がありました。それは京大呼吸器外科の伊達洋至教授との出会いです(伊達先生のフルマラソンのベストタイムは2時間48分)。自分よりもレベルの高い人と交流することで、自身に変化が現れ、シーズン最後の能登和倉万葉の里マラソンで3:24:17という記録が出せました。今は山中伸弥先生とも一緒に定期的に走っています。

いい仲間に恵まれることは、本当に幸せな事です。ジョギングに関する本を買って勉強しましたが、座学だけでなく、人との交流を通じて人間は成長するものです。職場も同じで、低きに流れるような組織に属するのは不幸です。それを避けるためには、自分自身が組織を良くしようという意識と努力も必要となります。環境を自分では選べないときもありますが、その時は自身で環境を良くするように努力しなければなりません。成果が上がらないことを周りにせいにする人をよく見かけますが、自己努力が足りていないことがほとんどです。

4年目のシーズンは、あこがれの別府大分マラソンへ呼吸器外科の先生方と一緒に参加でき、一皮むけて3:07:33でした。この大会は市民ランナーのあこがれの大会です。一般的なマラソン大会とは雰囲気が全く異なります。何が違うって、「全て」が全然ちゃいます。これは体験した人にしかわかりません。ですから、若い人達には、何事にせよ、頭の中で考えるだけでなく実際に行動して経験してもらわないと…。研究がうまくいったときの喜びも、これは経験した人にしかわからないですよね。そしてそこに至るまでの道程が厳しかったときほど代えがたいものとなります。

5年目のシーズンは、別府大分マラソンで漸くサブスリーを達成できました(2:58:15)。年も年なので、肉体的には伸びしろはあまり残っていないでしょう。ただ、一緒に参加している知人は、49歳にして自己ベストを更新し続けています(別府大分では2時間56分)。人はいろいろと自分に言い訳をつくって楽になろうとしますが、年をとることでできなくなると思っていることの多くは、自身の心の内の甘えだけなのかもしれません。

その他、ウルトラマラソンは、野辺山ウルトラマラソン(100 km)などを楽しみました。ウルトラマラソンはタイムを競うというよりは、自然の美しさを楽しみ、そして10時間あまりを自己と対峙しつづけるある種の座禅のようなもので、心洗われる感覚があります。

「練習したりする時間がよくあるねー」と知り合いに言われたりしますが、自宅と大学の通勤ランと出張時の大学と京都駅などの往復になります。新宿の京王プラザホテルで学会の場合は東京駅から走ったりしています。基本的にはエレベーターも使わないようにしています。体を動かすことを日常に組み入れることが、結局一番続けやすいようです。自分の性格や特徴を見極めて自分をいかにうまく操ることの大切さは、マラソンに限らず、仕事などでも当てはまります。

所詮は趣味ですが、されど趣味でもあります。自分が一度立てた目標に向かって努力すること、そして自分の目標が達成できないときには悔しいという感情が湧いてこなければ、それはとても残念なことです。悔しさや喜びといった感情は、真剣に取り組む人にしか味わえず、そういう経験をできることは幸せなことです。やはり、「科学者が本当に好きなものは二つ、危険と遊びである」。サイエンスとささやかな趣味であるランニングをこれからも満喫したいと思います。

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