松浦有志太郎 教授のプロフィール
- 1865年(慶応元年)11月2日
- 熊本県宇土郡松合村に、松浦鉄次の3男として生まれる
- 1875年(明治8年)?
1880年(明治13年) - 福田元澤、守田文毅の門に学ぶ
- ?同年1月
- 東京本郷のドイツ学校に学ぶ
- 同年11月
- 東京帝国大学医学部予科入学
- 1888年(明治21年)7月
- 東京帝国大学医学部予科卒業、
直ちに東京帝国大学医科大学に入学 - 1892年(明治25年)11月
- 東京帝国大学医科大学卒業、医学士となる
- 1893年(明治26年)2月
- 同学助手拝令
- 1895年(明治28年)5月5日
- 県立熊本病院外科部長に就任
- 1899年(明治32年)
- 文部省より京都大学皮膚病学黴毒学担任の候補者としてドイツに留学
- 1900年(明治33年)11月7日
(留学中) - 京都帝国大学医科大学助教授となる
- 同年11月
- 帰国
- 同年12月23日
- 教授に就任
- 1916年(大正5年)7月21日?
1918年(大正7年)10月30日 - 第4代京都大学医学部附属病院長を務め依願免官、続いて講師を嘱託せられ主任を命じられる
- 1919年(大正8年)11月1日
- 嘱託を解かれる
- 1937年(昭和12年)8月28日
- 心臓麻痺のため逝去
享年71歳
- ※松浦有志太郎教授については、安井昌孝「松浦有志太郎とその周辺」日本医事新報No. 3908(1999年3月20日号)55-60頁を参照のこと。
松浦有志太郎教授時代(1902年~1918年)の業績
1898年(明治31年)京都帝国大学医科大学が創設されると間もなく、1899年(明治32年)本講座は設置され、外科の教授猪子止戈之助により兼任され、1900年(明治33年)、教授松浦有志太郎により、名実共に開講された。
当時の外来および研究室の建物は、33年に竣工した外来棟本館東北にあり、その後口腔外科外来として使用されていたが、昭和38(1963)年解体され、その跡は現在の外来棟東部に該当する。
当時の病舎は東側に奇数番号、西側に偶数番号がつけられ、東西に平行に南より北に配置されていた。皮膚科病舎は明治36年完成の平屋建第12病舎であり、その位置は現在の産婦人科の南あたりであった。その南には、第10病舎であった現看護学校の建物が現存している。大正3(1914)年から4年にかけ西部構内西寄り、すなわち現在の結核研究所の所に木造2階建の壮麗な本館、その北側すなわち今のウイルス研究所の所に平屋建の同病舎が完成した。
松浦は、日本住血吸虫皮膚炎において虫体が皮膚に侵入することを立証し、正円形粃糠疹を初めて記載し、有名な皮膚外用薬ピチロールを創製した。
松本信一 教授のプロフィール
- 1884年(明治17年)11月
- 福島県会津若松市にて出生
- 1909年(明治42年)11月
- 京都帝国大学を卒業
- 1913年(大正2年)
- 京都帝国大学助教授に就任
- 1915年(大正4年)
- アメリカに留学
- 1919年(大正8年)11月1日
- 帰朝後、京都帝国大学教授に就任
- 1936年(昭和11年)
- 独逸自然科学者学士院の会員となる
- 1938年(昭和13年)11月10日?
1940年(昭和15年)11月30日 - 京都帝国大学医学部長を務める
- 1944年(昭和19年)12月18日
- 京都帝国大学を定年退職
- 1946年(昭和21年)1月
- 京都大学名誉教授に就任
- 同年3月
- 大阪医科大学学長に就任
- 1949年(昭和24年)10月
- 日本学士院の会員となる
- 1955年(昭和30年)4月
- 第14回日本医学会会頭
- 同年9月
- ドイツ大十字功労賞を受賞
- 1956年(昭和31年)3月
- 日独文化研究所長
- 1958年(昭和33年)11月
- 第2回野口賞を受賞
- 1965年(昭和40年)9月
- 第2回シャウヂン・ホフマン賞を受賞
- 1966年(昭和41年)11月
- 勲一等瑞宝章を受賞
その他ドイツ、フランス、アメリカ、デンマーク、ハンガリー、ギリシア、イタリー、イギリス、オーストラリアの皮膚科学会の名誉会員か客員に推されている - 1984年(昭和59年)8月1日
- 逝去
享年99歳
松本信一教授時代(1919年~1944年)の業績
1919年(大正8年)松本信一が第2代主任教授に就任した。1923年(大正12年)には癩の診療、研究を行なう皮膚科特別研究室が付置され、1934年(昭和9年)には泌尿器科学講座が分離して新設された。
松本はスピロヘータ性疾患、実験腫瘍、人皮膚癌と癌前駆症、経皮経粘膜免疫および細菌感染の免疫、対称性角化症をはじめ各種皮膚疾患の詳細な病態症候学等々の研究を行い、これらの業績に対し1958年(昭和33年)野口賞、1965年(昭和40年)シャウディンーホフマン賞が授賞された。
ちなみに後者は、ドイツ皮膚科学会より、世界の皮膚科学界における偉大な業績に対し授けられるもので、松本の受賞はその第2回目である。松本はさらに、昭和41年度文化功労者として顕彰された。
山本俊平 教授のプロフィール
- 1898年(明治31年)11月13日
- 静岡県伊東市にて出生
- 1920年(大正9年)
- 旧制第七高等学校を卒業
- 1924年(大正13年)
- 京都帝国大学医学部を卒業し、同年京都帝国大学医学部皮膚病学黴毒学教室に入局
- 1928年(昭和3年)
- 京都帝国大学医学部の講師となる
- 1929年(昭和4年)
- 医学博士学位を授与される
- 1932年(昭和7年)
- 大阪女子高等医学専門学校皮膚科泌尿器科の教授に就任
- 1939年(昭和14年)
- 同病院長となる
- 1945年(昭和20年)7月11日
- 京都帝国大学医学部の教授に就任
- 1954年(昭和29年)10月20日?
1957年(昭和32年)12月16日 - 京都大学結核研究所長、京都大学医学部附属病院長を務める
- 1957年(昭和32年)12月16日?
1961年(昭和36年)6月15日 - 京都大学医学部長を務める
- 1961年(昭和36年)11月12日
- 京都大学医学部教授を定年退官する
- 同年
- 財団法人田附興風会北野病院長を務める
京都大学名誉教授に就任 - 1966年(昭和41年)
- 財団法人田附興風会北野病院長を退職
財団法人天理よろづ相談所病院長に就任 - 1972年(昭和47年)
- 同病院を退職
- 1989年(昭和64年)1月2日
- 逝去、享年90歳
山本俊平教授時代(1945年~1961年)の業績
昭和19(1944)年山本俊平が教授に就任し、皮膚疾患と全身状態、特に準備状態を形成する諸因子に関する研究を行なった。すなわち各種皮膚疾患において臓器機能、内分泌、ビタミン、アミノ酸、リポイド、血清蛋白分屑、pH等の異常を検討し、さらに系統的な動物実験を加えて、皮膚疾患が発生するには諸疾患に対して一定の準備状態が存在することを明らかにした。
実験的には、刺激性または感作性皮膚病変、スピロヘータ疾患、糸状菌症、葡菌症を、肝障碍、腎障碍、甲状腺機能異常、副腎皮質機能異常、糖尿病、睾丸、卵巣摘出、男性・女性ホルモンの過剰投与、インシュリン投与、各種ビタミン欠乏、各種薬剤投与等の状態下で検討し、上記関係の存在を裏書きする事実を得た。
例えば糖尿病家兎では刺激性皮膚病変は増強されるのに対して感作性病変は抑制され、梅毒性病変は2期疹に限り悪性像を呈し、梅毒再・重感染に対する通常の免疫は成立し難いとした。
この他諸種抗生物質の実験的スピロヘータ疾患に対する影響を検討し、それらのひとつは講師小森谷正義の名で皆見賞を受けた。
太藤重夫 教授のプロフィール
- 1917年(大正6年)9月9日
- 東京都本郷にて出生
- 1937年(昭和12年)3月
- 東京高等学校高等科理科乙類卒業
- 1941年(昭和16年)3月
- 京都帝国大学医学部医学科を卒業
- 1941年(昭和16年)5月
- 京都帝国大学医学部の副手となる
- 1942年(昭和17年)10月?
- 軍務(軍医)につく
- ?1946年(昭和21年)4月
- 中支、南太平洋にて軍医として勤務、その後復員する
- 1946年(昭和21年)5月
- 群馬県富岡厚生病院医員
- 1947年(昭和22年)11月
- 京都大学医学部副手
- 1949年(昭和24年)6月
- 京都大学医学部助手
- 1951年(昭和26年)2月
- 京都大学医学部講師
- 1956年(昭和31年)8月
- 京都大学医学部助教授
- 1962年(昭和37年)4月1日
- 京都大学医学部の教授に就任
- 1971年(昭和46年)8月1日?
1972年(昭和47年)7月31日 - 京都大学医学部附属病院長を務める
- 1973年(昭和48年)12月16日?
1975年(昭和50年)12月15日 - 京都大学医学部長を務める
- 1979年(昭和54年)10月1日
- 京都大学医学部教授を退官する
- 同年10月
- 京都逓信病院長
- 1985年(昭和60年)10月
- 関西電力病院長となる
- 1992年(平成4年)
- 同病院を退職
- 1994年(平成6年)11月
- 勲2等瑞宝章を受賞
- 2012年(平成24年)10月18日
- 逝去(享年95歳)
太藤重夫教授時代(1962年~1979年)の業績
昭和37(1962)年太藤重夫が教授に新任された。昭和40年、半世紀の星霜を経た建物はとりこわされ、関係者の哀惜は尽きせぬものがあった。
外来病舎はそれぞれ東部構内に新築された総合外来棟3階東側および第1病棟5階に移転し、研究室は西部構内旧小児科北病舎を中心とした建物を修繕して移転した。
教室の研究の主な対象は皮膚上層の炎症性病変、特に湿疹性病変であった。細菌、眞菌によるアレルギー性接触皮膚炎や病巣感染による膿疱症の解明が行われた。次いでアトピー皮膚炎における遅延型アレルギーの存在を組織像、皮膚反応、白血球遊走試験などにより説明し、アトピー皮膚炎をアレルギー性接触皮膚炎としての可能性を呈示した。
基礎的な面から、アレルギー性接触皮膚炎の電顕的観察やマウスにおける免疫反応の機序の解明が行われた。
さらに、天疱瘡や光線性皮膚症においても新知見が得られている。
他方、好酸球性膿疱性毛包炎、丘疹紅皮症、小児腹壁遠心性脂肪萎縮症が新しい病変として記載され、国際的にその臨床的独立性が認められている。
なお、これらの研究の論文の多くは国際誌に掲載され、広く知られている。
今村貞夫 教授のプロフィール
- 1935年(昭和10年)2月5日
- 京都市にて出生
- 1953年(昭和28年)3月10日
- 福井県立若狭高等学校卒業
- 同年4月1日
- 京都大学理学部に入学
- 1955年(昭和30年)3月31日
- 同上2年修了
- 1955年(昭和30年)4月1日
- 京都大学医学部医学科専門課程に入学
- 1959年(昭和34年)3月24日
- 同上卒業
- 1959年(昭和34年)4月1日
- 京都大学医学部附属病院にて実地修練を開始
- 1960年(昭和35年)3月31日
- 同上終了
- 1960年(昭和35年)6月10日
- 第28回医師国家試験合格
- 同年7月1日
- 京都大学医学部附属病院助手となる
- 1966年(昭和41年)7月22日
- 米国マサチュ-セッツ州ボストン大学へ留学
- 1968年(昭和43年)7月11日
- 京都大学医学部附属病院助手に復職
- 同年11月25日
- 京都大学医学博士となる
- 1970年(昭和45年)6月16日
- 関西医科大学助教授(香里病院勤務)を務める
- 1972年(昭和47年)1月1日
- 京都大学医学部講師となる
- 1977年(昭和52年)3月31日
- 日本皮膚科学会認定皮膚科専門医
- 1978年(昭和53年)4月1日
- 京都大学医学部助教授となる
- 1980年(昭和55年)6月16日
- 京都大学医学部教授に就任
- 1991年(平成3年)4月30日
- 日本アレルギー学会認定専門医(皮膚科)ならびに指導医となる
- 1994年(平成6年)9月22日
- 華西医科大学皮膚科学名誉教授
- 1995年(平成7年)4月1日
- 京都大学大学院医学研究科教授を務める
- 1997年(平成9年)7月30日
- 京都大学大学院医学研究科教授を退職
- 同年8月1日
- 松江市民病院長に就任
二期8年間にわたって病院運営に貢献した後、医道会十条リハビリテーション病院長に転じ、現在に至っている。
今村貞夫教授時代(1980年~1997年) の業績
昭和55(1980)年6月、太藤教授の後任として今村貞夫が京都大学医学部皮膚病学黴毒学教室の第5代教授に選ばれた。今村教授の就任時の抱負としては、1)山本、太藤両教授によって受け継がれた教室の自由な雰囲気を守ること、2)できるだけ他領域ことに基礎医学の進歩を取り入れて皮膚疾患の病態解明を行うこと、3)退官まで17年余の間2,000編以上の論文を発表するとともに、出来るだけ多く国際誌に掲載されるような質の高い論文を発表することなどであった。
そこで、大学院生のかなりの人達を、医学部基礎教室やウイルス研究所、胸部疾患研究所、理学部などへ派遣し、近代基礎医学の方法や考え方を学ばせ、それを身につけて皮膚疾患の病態の解明を図ろうとした。その結果、これまでに今村教授の教室の大学院生を受け入れてくれた教室は18教室にのぼり、いずれも大変熱心に教えていただくとともに温かく接していただいた。
今村教授は、基礎医学で学んだ成果をそれだけで終わらすのではなく、皮膚科に還元することが目標であったので、大学院生には基礎的な論文とともにその皮膚科版としての論文の2つのの完成をもって学位授与の基準とした。この基準は大学院生にとってはなかなか厳しかったようで、大学院終了後直ちに学位を取得する者は少なく、さらに2、3年を要する者がほとんどであった。
先にも書いたように、今村教授は教室員に対してできるだけ自由に研究させようとしたが、教授就任当初の今村教授自身の興味としては、紅斑症の発症機序についてであった。これは、今村教授がまだ助教授の頃、先代の太藤重夫教授が蕁麻疹や接触皮膚炎についてはアレルギー反応の詳細がかなり研究されているが、紅斑症については明らかでないので研究してみてはどうかと言われたことからであった。
そこで、当時の若い人達に手伝ってもらい、紅斑症の代表疾患である多形滲出性紅斑について免疫アレルギーの側面だけでなく、薬理学的、生化学的な側面などからも研究し、アレルギー反応、ヒスタミン代謝異常、活性酸素の産生など様々の要素がからみ合って生じてくることを認め、平成3年京都で開催された第90回日本皮膚科学会総会・学術大会の会頭講演として発表された。
平成元年、今村教授は久留米大学笹井陽一郎教授の後任として、厚生省特定疾患稀少難治性疾患調査研究班の班長に選ばれた。皮膚科を中心とする全国29施設に班員、研究協力者を依頼し、5年間、表皮水疱症、膿疱性乾癬、天疱瘡の疫学調査、診断基準、治療方針の作成に取り組むとともに、これら疾患の基礎研究が行われた。教室の若い人達にもかなりの負担をかけたが、その一方、水疱性疾患の発生機序に関して免疫学的手法に加えて、分子生物学的手法の導入などを行い、結果としてかなりの論文を国際誌に発表することが出来たのであった。
平成5年10月、第2回三大陸合同研究皮膚科学会を国立京都国際会館で開催した。
本学会は、日本、米国、欧州の各研究皮膚科学会の合同学会であり、第1回はアメリカのワシントン市で行われ、皮膚の生理や病態を扱う世界のトップの研究者が一同に会した皮膚科領域では最も質の高い研究学会である。この学会をわが国で初めて京都の地で開催したのだが、約1,000名の参加者のうち、その半数が世界30ケ国からの外国人であり、きわめて質の高い演題の発表と、熱心な討論に明け暮れた4日間であった。
宮地良樹 教授のプロフィール
- 1951年(昭和26年)12月
- 静岡市にて医家に出生
- 1971年(昭和46年)
- 静岡県立静岡高等学校を卒業後、京都大学医学部に入学
- 1977年(昭和52年)
- 京都大学医学部を卒業後、天理よろづ相談所病院内科レジデント
- 1978年(昭和53年)
- 当時太藤重夫教授が主宰していた京都大学医学部皮膚科学教室に入局
- 1979年(昭和54年)
- 助手となり、主として活性酸素による皮膚炎症、紫外線生物学などの研究に着手
- 1982年(昭和57年)
- 二年間、米国ミネソタ大学医学部リウマチ学教室に留学
Joel Taurog博士(現テキサス大学内科教授)に師事し、臨床免疫学を学ぶ - 1985年(昭和60年)
- 帰国後、医学博士の学位を取得
- 1986年(昭和61年)
- 講師に昇任し、病棟医長を兼務
- 1990年(平成2年)
- 天理よろづ相談所病院皮膚科部長に転じる
- 1992年(平成4年)
- 群馬大学医学部皮膚科教授に就任
群馬大学では主に皮膚アレルギー炎症、真皮結合織代謝の研究を展開した。この研究活動の結果、世界の皮膚科分野における論文被引用回数ランキング(筆頭著者部門)で日本人最高の世界第15位にランクされた(Arch Dermatol 135:299-302,1999)。 - 1998年(平成10年)
- 京都大学大学院医学研究科皮膚科学教授
- 2005年(平成17年)~
2008年(平成20年) - 京都大学病院副院長(経営担当)を兼務
- 2014年9月(平成26年)
- 京都大学大学院医学研究科教授を退職
- 2014年10月
- 滋賀県立成人病センター(現:滋賀県立総合病院)病院長に就任
- 2018年4月
- 静岡県立総合病院参与,NPO法人皮膚の健康研究機構理事長兼務
- 2021年4月
- 静岡社会健康医学大学院大学 学長・理事長就任。現在も精力的に活躍している。
宮地良樹教授時代(1998年~2014年)の業績
今村教授が1997(平成9)年に松江市民病院院長として転出のため退官し、その後任として、当時群馬大学医学部皮膚科教授であった宮地良樹が、平成10(1998)年6月に第6代教授に就任した。
宮地教授は群馬大学在任中、ヒト培養肥満細胞を用いた皮膚アレルギー炎症、光老化や強皮症における真皮結合織代謝の研究を展開していたが、京都大学着任後は、今村教授時代の分子皮膚科学、細胞外マトリックス、光生物学研究を継承するとともに、新たにアレルギー・炎症、皮膚再生をキーワードとした研究を展開し、制御性T細胞、プロスタノイド研究などでNatureをはじめとする一流誌に論文が発表された。
また着任後より、教室員の海外留学推進、他大学教授就任ならびに講師など教室関係の多様な人事交流が行われるようになった。
宮地教授はまた、日本皮膚科学会理事、日本褥瘡学会理事、日本香粧品学会理事などの要職も兼務しており、2004年には第103回日本皮膚科学会総会を主催した。教室では、2002年度に引き続き2003年度、2008年度皆見賞受賞者を輩出するなど、質の高い論文が続々と発表された。
椛島健治 教授のプロフィール
- 1970年(昭和45年)5月
- 岐阜県高山市にて出生
- 1990年(平成2年)
- 千葉県立千葉高等学校を卒業後、京都大学医学部に入学
- 1996年(平成8年)
- 京都大学医学部を卒業後、横須賀米海軍病院インターン
- 1997年(平成9年)
- 当時今村貞夫教授が主宰していた京都大学医学部皮膚科学教室に入局
ワシントン大学医学部付属病院へ臨床留学し、内科・皮膚科の臨床研修を行う - 1998年(平成10年)
- 帰国後、新たに着任した宮地良樹教授のもとで臨床を行う
- 1999年(平成11年)
- 京都大学大学院医学研究科薬理学教室(成宮周教授)にてプロスタグランジンの炎症・免疫疾患において果たす役割について研究する
- 2003年(平成15年)
- 学位取得後、京都大学医学部付属病院にて助手として臨床と研究に従事する
- 同年10月
- カリフォルニア大学サンフランシスコ校 医学部 免疫学教室 (Dr. Jason Cyster)にて樹状細胞や形質細胞の動態などにおける基礎研究を行う
- 2005年(平成17年)
- 帰国後、産業医科大学 皮膚科(戸倉新樹教授)の元で、准教授として皮膚免疫をテーマに臨床観察に基づく仮説を証明する研究スタイルを確立する
- 2008年(平成20年)
- 京都大学医学研究科 創薬医学融合拠点(皮膚科兼任)にて准教授としてアトピー性皮膚炎の創薬事業に従事する
- 2010年(平成22年)
- 京都大学医学研究科 皮膚科の准教授として着任
- 2015年(平成27年)
- 京都大学医学研究科 皮膚科教授に就任
その後は臨床から着想した仮説を、様々な最新手技を導入する事により解明してきた。また、臨床への応用も積極的に試みている。 - 2013年(平成25年)
- 科学技術振興機構 さきがけ研究員を兼任
- 2015年(平成27年)8月
- シンガポール A*Star SIgN/IMB Senior Principal Investigator (兼任)として、研究室をシンガポールにも構える
椛島健治教授時代(2015年~現在)の業績
宮地教授が平成26(2014)年に滋賀県立成人病センター院長として転出のため退官し、その後任として、当時京都大学医学研究科皮膚科准教授であった椛島健治が、平成27(2015)年6月に第7代教授に就任した。
椛島は、臨床から得た疑問を解決すべく、分子生物学・遺伝子改変動物・ライブイメージングなどの新規手法を積極的に導入して解明してきた。研究成果の一部は臨床治験に進んでおり、今後臨床へ応用されることが期待されている。
英文論文数も350編を越え、皮膚免疫・アレルギー学における世界の第一人者の一人と言える。
海外との繋がりが多いのも椛島の特長の一つである。椛島は、国際皮膚科連合(International League of Dermatological Societies; ILDS)のアジア地区代表理事、国際研究皮膚科学会(International Society of Investigative Dermatology)の理事、International Eczema Council理事など国際的な活動を積極的に行っている。他、アレルギー学と皮膚科学における最高峰の雑誌であるJournal of Allergy and Clinical ImmunologyとJournal of Investigative Dermatologyの両者においてeditorial boardメンバーを務めている。欧米の多くの研究室と共同研究を行い成果をあげるだけでなく、平成27(2015)年からはシンガポールにも研究室を開設し、国際性の豊かな教室の実現を目指している。
同時に、教室員の留学も奨励しており、当教室の留学先としては、米国 NIH・UCSF・テキサス大学・コロラド大学・ハーバード大学、スイス チューリッヒ大学・SIAF、オーストラリア シドニー大学、ドイツ ミュンヘン大学など枚挙に暇がない。
京都大学には、自由を尊重する学風がある。その伝統が学術領域の多様性やオリジナリティーの創出に繋がるものと椛島は考える。そのため、旧体質の医局にありがちな教授を中心としたヒエラルキーや出身大学などによる学閥のようなものは一切存在しないのびのびとした雰囲気がある。若いメンバーが中心の教室ではあるが、日本を越えて世界で活躍する気概のある人材を育成し、医学の発展に貢献したいと椛島は強く願っている。